海路から神に参る

九州

鹿児島県 硫黄島(鬼界ヶ島)   で神社に参る 平成19年6月17日 (2007.6.17)


硫黄島は来てみたかったところ。湾の中はまっ黄色というか土色。底は全く見えない。
12時過ぎに着いて即食事をし今終わったところ。1時。
ここもインターネット事情が悪い。docomoの携帯電話経由でダイアルアップしこの記事をアップ。

硫黄島は叉の名を鬼界ヶ島という。そう俊寛が流された島である。
俊寛が住んでいた所に俊寛堂というのが残っている。勿論立て直したものである。
島内の幹線道路から脇に500mぐらい入ってところで今でも町から外れたところである。
ただ如何にもと言った雰囲気のする場所であった。
鬼界ヶ島が何処かとういのは他の説もあるらしい。
奄美大島の東方にある喜界島にも俊寛の墓と言われるものがある。

また、不思議なことに安徳天皇墓所があることである。
安徳天皇は平家滅亡の際、幼い身で死に至ったはずである。
硫黄島の言い伝えでは安徳天皇はこの地まで逃げ延びて来て、子供までもうけ、その子孫と言われる家柄がズット今も続いているらしい。

険しい岩山が海上に突き出ており恐ろしげなところに見えるが島に上陸してみると緑は美しく温泉が湧き、住み易そうなところである。
ただ自然がきれいというより歴史と文化を感じさせる島である。

立派な神社が港の直ぐそばにあるほか神社が何箇所かある。

熊野神社:
港に面してと言って良い位置に熊野神社がある。
説明看板によればこの神社は硫黄大権現宮とも呼ばれ、安徳帝晩年の皇居跡とも伝えられている。
治承元年(1117)鹿ヶ谷荘での平氏打倒の陰謀を知った平清盛は、藤原成経、平判官康頼、大僧都俊寛の3人を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑した。
成経と康頼は早く許されて都に帰れるようにと紀州熊野三所権現を勧請してここに祭った。
後に文治元年(1185)安徳帝が居住されてから、来真三種権現(くまさんしゅごんげん)と改められ、三種の神器を内陣に祭られた。
桂庵和尚の棟札によれば1499年島津忠昌により社殿の修復を行ったとある。
また安徳帝の末裔長濱権之蒸吉延が朝鮮之役1598年の際の活躍により島津家により以後、奉納、社殿の修復が行われるようになったとある。

岳乃神神社
稲村岳の北東側から麓に向かって細い道を300mほど入った左手にある。
赤い鳥居がありその奥に祠が祭られている。

俊寛堂
稲村岳の西側から東温泉に至る道の北み向かう分岐点を北に200mほどいったところの左側に標識と入口がある。
そこから人家は全く無い林の中をズット下って行った突き当りにある。

看板によれば
治承元年(1117)平清盛は、鹿ケ谷荘(鹿の谷荘)での平氏打倒の陰謀を知り、平判官康頼、丹波少将成経、大僧都俊寛を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑する。
翌年、中宮徳子の安産祈願のための大赦により、康頼、成経の2人は赦免されたが、俊寛だけは許されなかった。
俊寛は、治承3年(1179)37歳で亡くなった。島の人々は、俊寛の死を哀れみ、3人を合わせて祭り、俊寛の居住跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂という。

安徳帝墓所
港から10分程度、東温泉に行く道の右手にある。安徳帝以外の関連者の墓も多数ある。
看板によれば
文治元年(1185)3月25日、長門壇の浦における源平の一大決戦で平家は滅び去った。
このとき、二位の尼に抱かれて入水したはずの安徳帝が硫黄島に逃げのび、しかも後年、資盛の娘櫛匣の局をお后として隆盛親王が誕生した。
その子孫が現在の長濱家であると言われている。寛元元年(1243)66歳で生涯を閉じた。(「三島村誌」)68歳でなくなった。(「鹿児島の湊と薩南諸島」)

温泉:
温泉は歩いて40分ぐらいに東温泉という岩の中に緑の湯をたたえた海岸の温泉と行かなかったが北側に坂本温泉とういのもある。

少し遠いがこの東温泉まで歩いていく。他に人っ子ひとりいなかったので温泉の前で素っ裸になって入る。なかなかの温泉である。

温泉はこの東温泉と港の近くの文化センターのようなところにある温泉銭湯と一日に2回入った。

 熊野神社参道  熊野神社拝殿  熊野神社本殿 熊野神社説明I板 
   
 岳乃神神社  岳乃神神社鳥居額  岳乃神神社拝所  
   
 安徳天皇墓所 標識   配置説明  説明板
   
 御祈神社(俊寛堂)参道  御祈神社(俊寛堂)  説明板  謡曲俊寛説明板
       
 東温泉  硫黄島硫黄岳